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Travel note 

パラティで歴史を香る。-Paraty

2019年8月

植民地時代のポルトガル建築が町一帯にのこるパラティはリオデジャネイロ州の南端に位置する。美しい水辺に映える赤レンガと白い壁がとても印象的だ。小さな町だがかつて貿易の要所として栄え、人も物もよく行き交った。サオパウロとリオデジャネイロを移動するなら数日でも是非立ち寄りたい歴史の詰まった場所。

歴史

Paraty(パラティ)と言うのは原住民の言葉(Tupi語)で「魚の川」という意味。もともとこの辺りにはGuaianásと呼ばれる人々が住んでいた。1597年にポルトガルがここを占領し1667年には正式な植民地となるが、その後1696年にこの付近にあるMinas Gerais(ミナスジェライス)の山々から金が見つかるとパラティは輸出港として大いに栄えた。(リオデジャネイロを経由して金は最終的にポルトガルへ送られた。)鉱山へ食料や資材、奴隷を運ぶのにCaminho do Ouro(黄金の小道)と呼ばれる1200㎞に及ぶ石畳の道が整備され、ここへは400万人以上の人々がアフリカの国々からリオデジャネイロを経由して奴隷として連れられてきたことが、教会に残る洗礼の記録からわかっている。洗礼はアイデンティティをもぎ取られた人々が最初に受ける儀式のひとつであった。

そんな経緯で栄えたパラティだが、その後度重なる海賊の襲来に悩まされる。これを防ぐためミナスジェライスの鉱山からリオデジャネイロまでの道路が建設されるとパラティは輸出港としての役目を失い、さらに18世紀後半には金が底をつくと、パラティの経済は急速に衰退していく。19世紀にはいるとパラティはコーヒー産業によって復興の機を得るがその後産地からリオデジャネイロまでの鉄道が延び加えて1888年には奴隷制度が廃止されたため、パラティは人口600人ほどの小さな町として忘れられていく。そうして1970年代にようやくパラティまでの道路が整備された時には、長い間ひっそりとその歴史を守ってきたパラティの町は観光地として世界中から人の訪れる町となった。

 

見どころ

旧市街

世界遺産にも登録されているパラティの旧市街は歴史のかたまり。ポルトガル語やスペイン語または英語がわかるならウォーキングツアーに参加して歴史を学びながらゆっくり散策してみよう。

旧市街には4つの教会がある。白人エリート男性用、白人女性用、労働者や黒人用、奴隷用など、かつての階級や社会グループによって行く教会も異なった。街の景色は白壁に赤レンガの屋根。苔むした不揃いなレンガはこれを作った奴隷女性たちの太ももの形だ。可愛らしいパイナップルの飾りは豊かさの象徴で、これを見かけたら富裕層が暮らした家だということ。壁にあしらわれた象形文字のような模様はフリーメイソンの文字で一般に意味は知られていないが、フリーメイソン信仰が海を渡ってブラジルにもやって来たことがわかる。かつて風俗街だった小道も今は土産物屋や喫茶店の並ぶ通りで、近くにあった奴隷商人の家もそのまま世界遺産に登録された。奴隷が収容されていた1階には窓がなく、小さな小さな鉄格子がひとつ空気穴のように取り付けられている。水辺へ出れば向こうに広がる山々が美しい。満潮の時にはこれが浸水し不思議に趣のある景色が見られる。

満潮時

 

その他

パラティ滞在はほんの数日だったため旧市街とビーチで完結したが、自然豊かなパラティはハイキングや離島巡りも人気。離島巡りは基本的にツアーで、ホステルが格安で提供しているものもある。大勢でのボート観光に気乗りがしないなら、Praia Grandeなど街から近いビーチでのんびりするのもいし、バスで南部のTrinidadに行ったりボートでSaco do Mamanguaを訪れたりと、個人でも楽に行ける場所が多いのが嬉しい。バスは街の中心部にあるターミナルから、ボートは基本的にParaty Mirin(ここへもバスターミナルからバスが出ている)からたくさん出ている。相場はひとり片道80レアル(日本円でおよそ2000円)と高いので、Saco do Mamanguaへは1時間半のハイキングで行く人も多い。旧市街入り口の観光案内所や宿泊施設で確認してみよう。

そのほかカヌーでのマングローブ巡りや様々なウォータースポーツからハイキングまで選択肢は多い。